平和を願うこと、平和を祈ること


(財)アジア保健研修所(AHI)常務理事 
中野 清(なかの きよし)



 夏の暑さにうだりながら、高校球児の姿とともに、「平和の祈り」と題した広島、長崎で平和を祈願する人びとの姿をテレビで目にするのも日本の夏の一風景です。争いのない平和なくらし、幸せな家族、健康、だれもが願うものであることに疑う余地はありません。それが脅かされ破壊されてゆく状況を目にするとき、たとえそれが直接自分の身に起こった事態でないとしても、人は心から平和が訪れることを願わずにはいられません。
 ところで、「平和を願う」あるいは「平和を祈る」というとき、「願う」ということばで表現することと「祈る」ということばで表現することになにか違いがあるでしょうか?わたしだけかも知れませんが、微妙な違いを感じます。その違いはどこにあるのでしょうか。
 願うとき、祈るとき、「誰かに」「何かを」願ったり祈ったりします。それは「誰に」向けてのものか、願いについては人にも神仏にも使うことができます。他方、祈りについては人には使えずもっぱら神仏のような人を超える存在(それを信じる信じないにかかわらず)が想定され、そこに両者の違いを見ることができます。ここから「平和を願う」より「平和を祈る」というほうが、より神聖な、宗教的感情がこもった趣きが感じされます。
 つぎに祈願の対象、つまり「何を」願い祈るのかに注目してみましょう。ここに「祈る」の語をめぐって興味深い日本語の用法変化があります。日本国語大辞典によると万葉時代は「神<<を>>いのる」であったようですが、現在は「に」がもっぱらだということです。また語源説「イ(斎・聖)ノル(宣)」にしたがえば「神を祈る」とは「神の名を口にする」ことが本来の意義であったと考えられます。わたしたちは「誰か<<に>>願いごと<<を>>願う/祈る」という形でしか祈ることを捉えていませんが、ここからすると祈るという行為自体の原基(はじまり)は神の名を<<呼ぶ>>ことのうちにあったということです。現代の祈りのなかにもこの古層が埋まっているとすれば、わたしたちの祈りも無意識のうちにまず誰かへの呼びかけとして心に生まれます。その後、意識化された個々の「願い」(例えば、平和への念い、希望、期待)が祈りの中身として誰かに向かって語りかけられると解することができます。こうして「平和への願い」と「平和への祈り」は微妙な差異を前提として、ひとつの祈願へと昇華してゆくのではないでしょうか。
 もしこのように祈ることの原基が<<呼ぶ>>ことにあるならば、それは呼びかけた相手と「ともにあること」(presence)への願いであり、「ともに歩むこと」を含意しているはずです。平和への一致した祈りの姿の中に、平和に対する意見の対立を超えて人がともに歩んでゆく可能性をみたいと思っています。
 「主の平和」がいつもみなさまとともにありますように。





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