フクシマの慰めとは


日本基督教団須賀川教会   
キリスト教保育連盟常任理事 
今野善郎(こんの よしろう)


 教会と施設は、福島原発から60kmの地にある。教会は半壊、教会員4名と幼稚園・保育園の職員8名の住宅が全壊し建物補修は、ようやく終了した。教会の施設には、0歳から5歳まで約320名の園児がおり、園庭の三度の表土除去、園児の安全対策、保護者への対応、避難休園児の対応、東電への損害賠償請求、安全な水と食料の確保などに追われた。当初は高かった線量が、自然低減と表土除去で0.2μSV以下で今は安定している。自覚症状がなく生命が蝕まれる低線量下の生活は、放射能に慣れてしまうことが一番危険で、放射線に緊張感を持続させることが難しい。昨年の11月までは園児たちの外遊びを制限したが、今は自由に外遊びをさせている。避難できる園児(約20名)は既に避難した。今の在園児は、避けられない放射線と仕方なしに共存して生きることを覚悟した保護者の子どもたちである。外遊びを制限するより、伸び伸びと園で生活し、たっぷりと遊び込み、おいしい昼食を食べ、心と体を満足させて体の免疫力を高めることが、より健全に育つと考えている。放射線事故被害者である福島の人は、事故後も変わらず訥弁で大人しい。内心では、もっと激しく騒ぎ抗議したいが、騒げば騒ぐ程に、仲間の農家や観光業が風評被害で苦しむことを知っている。怒っていないのではない。腸(はらわた)が煮えくりかえっているが静かに耐えるしかない。だからこそ、原発電力の恩恵を受けた人々にこそ、大きな声を上げて欲しい。
 今回の震災と原発事故は、カイロス(人間の歴史に神様が介入した時間)の時と信じて前向きに受け止めようとしているが、園児たちのことを思うと受け入れがたい不条理である。完全廃炉まで40年と言われるたびに聖書の「出エジプトの荒れ野の40年」と「バビロン捕囚」が頭をよぎる。これからの福島の小さな子どもたちに無理矢理に背負わされた重い十字架を思うと切ない。
 地元ではようやく「復旧・復興」の声が大きくなっているが、この呼び方に違和感を覚える。震災前の延長線上にある復旧・復興は、フクシマではあり得ない。被爆を経験して、これまでの在り方への強い反省と断絶のある「新生」しかない。
 地震・津波による「自然災害」と人災の「原発事故」をもっと峻別して考えて欲しい。「想定外」論が許され、被害者はいるが加害者の姿が曖昧になっている。今回の放射線事故への対応が、公害の原点水俣に似ている。原因企業や国の初期対応の遅れで汚染が拡大し、地域や患者への差別・偏見が長く残ること、国が原因企業に巨大な公的支援(税金)を投入し、企業を延命させ、企業を前面に出して補償させ、国の責任を曖昧にするやり方である。結果として、支援金や報償額は、税金と電気料値上げで国民負担に転嫁するという、国と東電にだけ都合の良い救済となっている。
 フクシマの真の慰めは、事故の真実と加害企業の責任が明らかになり、誠実で早い補償がなされることである。




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