各教派の社会委員会はいつ始まったのか


日本基督教団東駒形教会牧師  
戒能 信生(かいのう のぶお)


 ずっと以前、この国のプロテスタント各教派に、いつ社会委員会が発足したのかを調べたことがあります。今手許に詳しい資料が見つかりませんので、精確な年月日は分かりませんが、日本メソヂスト教会も、日本組合基督教会も、そして日本基督教会の場合も、社会委員会が発足したのは1923年の関東大震災がきっかけでした。大災害で苦しむ人々のために教会がなし得ることを求めて、それぞれの教派に社会委員会が生まれたのです。東日本大震災の被災者たちを覚えながら、今この歴史的な事実の意味を噛みしめています。
 関東大震災の直後にも、天譴論が流行りました。渋沢栄一が最初に口火を切ったとかで、当時の文学者や評論家たちもしきりに天譴論を論じたそうです。内村鑑三の天譴論が知られていますが、それはむしろ当時の一般的言説でありました。自身中学生として被災した社会学者・清水幾多郎の言によれば、「その頃ほとんどすべての人が天譴論を口にしたのであって、この二字は、関東大震災に献げられた諸雑誌のあらゆる頁に発見することができる」(『大震災はわたしを変えた』)そうです。
 そのような中で賀川豊彦が、それまで拠点としていた神戸から活動の場所を東京に移し、いち早く被災者救援活動を開始したことが知られています。賀川はその激しい救援活動の中から、次のように天譴論を激しく批判するのです。
 「東京、横浜の災害が、彼地商人の堕落、貴族社会の腐敗の為なりとして之を当然の報償とする事は、飛んでもない誤謬であることを知らねばならない。事実そうした批判をする事は人間の職分ではない。神のみの判断し給ふ処である。・・・然うだ。我等は友人の苦難に直面する時、之を糾弾するよりも、先ず最善の努力をして苦難の排除に当たらねばならない。」(『苦難に対する態度』)
 つまり、震災が天譴かそうでないかという議論をしている暇はない。今は、苦しんでいる被災者を助け支えることを優先しなければならない。苦しむヨブの膿を拭いてやること、その患部に包帯をしてやることこそが大切だと主張しているのです。そして実際に賀川は、最も被災の大きかった東京の下町・本所の地に大きなテントを張り出し、炊き出しをし、診療所を開き、無料宿泊所を設け、託児所を開設し、質庫信用組合を設立するという具合に、具体的な救援活動を展開していくのです。
 この賀川の救援活動を引き継ぐ仕方で、日本基督教聯盟の被災者救援活動が始まり、そして各教派に次々と社会委員会が組織されたのです。
 因みに、ボランティアと言う言葉がこの国で最初に用いられたのもこの時でした。震災の翌年、1924年8月に発行された『雲の柱』8月号に、賀川は「この夏はまた大勢のボランチャーが助けてくれるそうですから今から楽しみにして居ります」と記すのです。




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