手作りの平和


在日大韓基督教会総幹事  
洪 性完(ホン・ソンワン)


「平和を実現する人々は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる」

 私たちが政治や社会の構造的な悪を一所懸命論じて戦ったり、反対に、個人としてはどうしようもないと知らないふりをすることで波風立たない人生が送れるからといって、平和が実現するはずもありません。私たちが自らに何よりもまず問わなければならないのは、身の回りの小さな周辺世界で平和が実を結ぶ祝福をどれほど体験できているか、です。今まで、私たちが家庭、職場、学校、そして教会で、様々な争いが起きたときに、騒がしいところを避けてキョロキョロと平穏なところを探しているだけなら、まさにそこで立ち止まり、私たち自身の手でどうにかして「手作りの平和を」と考え始めるべきです。
 紛争が好きな人は、ひとりもいないでしょう。ニューヨークやアフガニスタン、またパレスチナでテロや報復が繰り返されるのは、平和が嫌なのではなく、自分たちの平和を一日でも早く実現させたいために、自分たちの善ばかりを求めるからではないでしょうか。イエスの生きた時代では、当時のローマ皇帝こそが神々の子と呼ばれるべきでした。皇帝こそが平和をもたらすことができると思われていたからです。民衆の求めている平穏無事を実現し得る力ある者こそ、本当の王であり、そのような王になるには、あらゆる騒ぎや紛争を鎮める力を備える者でなければなりませんでした。紛争を抑えられることこそが、<平和の実現>と考えられていたからです。{PAX ROMANA」(ローマの平和)とは、まさしくこのような意味で使われていたのでしょう。
 ところが今も、私たちはこのような「ローマの平和」を追い求めてはいないでしょうか。暴力や紛争は、冷戦後と言われる今日でも、なくなったわけではありません。しかし争いや暴力が起こると、そのたびに人々は、この騒ぎを止めさせる力や装置が必要であると叫ぶようになります。平和を実現する者とは、紛争や騒ぎを抑えられる力を併せ持つ者、または組織のことだと考えてしまうのではないでしょうか。
 イエスは、この平和について語られ、この言葉が無駄にならないために、これに十字架の重みを掛け、犠牲となられたのですこの言葉を生き得ていない私たちのため、そのような私たちを殺さずに生かすために、イエスは殺されました。そのイエスを天におられる父なる神は甦らせたのです。この事実に気づかなければ、地上に本当の平和はおとずれません。だからこそ、第一に神との和解が考えられなければなりません。神との平和は、私たちの肉体、魂、政治、道徳、宗教、犯し続けている罪、平和を破壊しているすべての罪が克服されるということです。その根深いところで、私たちの破れ、憎しみが克服されることです。
 様々な意味で平和が語られますが、その根源は一つ、神との平和なくしては、全てがみな虚しくなるのです。争いの絶えないこの現実の中にあって、私たちのささやかな言葉、小さな振る舞いが、主イエスを始められて私たち一人ひとりにその一端を担うようにされた平和、その片隅を築くことを確認するためのものであり続けたいと思います。




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