「あなたは命を選ばなければならない」


国際基督教大学教会牧師
北中 晶子(きたなか しょうこ)


「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」(申命記30:19)

「何かをすることと何もしないこととの違いは明白だ、一方は過ち、もう一方は過たない、一方は何かを起こし、もう一方は何も起こさない、・・・」というのはすべて幻想に過ぎないことを、私たちはよく知っています。何もしないことが、無惨にも何事かに加担することを、20世紀の様々な出来事が教えてくれました。21世紀も語り続けます。「何もしない」ことのあり得ない世界で、何も選ばないことは、「悪」を確実に助けるということを。「悪」はしばしば、不思議なほどに近く、賢く、執拗であるということを。
「恐れるに足らない相手」というのはいないのだと思います。油断しないように注意しよう、と呼びかけたいのではありません。こんな小さく無力な自分、取るに足らない自分でさえ、巨大な悪に加担することができるという事実を前にして、震えながら気づかされたことです。自分の無力を知れば知るほど、この事実が浮かび上がって来ます。どんなに弱い自分でも、選び取るささやかな行動が、選ばなかった「悪」に対抗します。恐れるに足らない相手などいないのは、こんな小さな自分にさえ、大きな悪が秘められているからです。
「武力で平和はつくれない」、だから武力は選ばない。その選択をするためには、確実に他の何ものかを選び、それをしなくてはなりません。どんなに小さく、ささやかでも、それだけが確かな「平和の実現」だと、多くの人が教えてくれます。
 知ろうとすること、選ぼうとすること、その意欲を持つこと、これらを促し、動かし続けるのは、流された土の中から神に叫び続けるアベル、兄弟の血です。過去にも、現在にも、恐らくは未来にも、私たちの世界にあふれています。・・・でも、それだけではありません。私のいる教会では、朝夕、鐘の音が響き渡ります。「平和の鐘」と呼ばれる鐘には、側面に「平和を求めて、これを追え」と英文が彫り込まれています。ペテロの第一の手紙3章11節で、その前節には「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は」という主語があります。
「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人」は、平和が表面的であったり部分的であったりすることは出来ないと、恐らく知っている人たちです。全体を求め、真実を求めればこそ、目的と手段の不一致に鋭く警戒する人たちです。「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人」は、アベルの血の叫びによって、自分の無力をよく知っているに違いありません。しかし大きな悪も、平和の実現も、その可能性は小さな自分・身近な隣人の、厳然とした事実です。
「あなたは命を選ばなければならない」と聖書が呼びかけます。命は、選ばなくてはなりません。




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