「主の平和がありますように」


日本福音ルーテル小石川教会牧師
徳野昌博(とくの まさひろ)


 わたしは「団塊の世代」より少し後発世代の人間です。「戦後」生まれの日本人で、少なく
ともわたしの世代までは、「愛国心」、ナショナリズムと言ってもいいのですが、そういうものがタブー視される環境の中で育ち、教育され、大人になっていったように思います。
 「愛国心」なるものについて、何も知らないということに気づかされた二つの体験があります。まずは、30年以上前の神学生だった時に、韓国のソウルからさらに北にある村で行われた「日韓キリスト者学生ワークキャンプ」に参加したときのことです。一日のワークを終えて、小学校の校庭でキャンパーが日本と韓国に分かれてサッカーに講じていると、夕方の5時になりました。すると、突然、学校のスピーカーから韓国の国歌が大きな音量で流れ始めたのです。誰が止めるでもなく、サッカーは中断、韓国人学生の多くはその場に直立し、胸に手をあてて、放送に合わせて韓国国歌を歌い出したのです。同年代の韓国人学生がそうする姿に、わたしはショックを受けました。それにはいくつかの理由がありますが、それはともかく、自分はまごうことなく敗戦国の人間なのだと再認識させられた出来事でした。
 もう一つは、フィンランドを旅行した時のことです。教会を訪ねると、その入り口近くの目立つところに立派な石碑があるのをよく見かけました。気になって、「あれは何ですか?」と質問すると、「ソビエトとの戦争で亡くなった教会員の名を刻み、記念しているのです」とのことでした。日本のキリスト教会ではありえない光景ではないでしょうか。フィンランド人の愛国心、ナショナリズムを目の当たりにする体験でした。
 タキトゥスという歴史家が言っています。「平和となることは、凶暴な原住民のその凶暴を抑えることだ」と。「ローマの平和」とは何かということがよく説明されていると思います。それは力による平和であり、文明開化の名のもとでの同化政策でした。それはローマ帝国に限ったことではなく、歴史の中で繰り返され、今日の世界にも同じ現実があります。そして、わたしたちキリスト者も平和を実現しようと努力しています。
 しかし、イエスさまは「平和ではなく、分裂だ」と言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」とも言っておられるのです。イエス様は何を言おうとしておられるのでしょうか?
 主なる神様がわたしたちに求めておられるのは「打ち砕かれた悔いる心」です。何にも増して、「悔い改め」ることです。それは反省や後悔に留まるのではなく、神さまの前で、神に向き直り、すべてをゆだね、無私となることです。それは自分の力で成し得るものではないでしょう。ただただ神様の憐れみによります。
 「主よ、憐れんでください」と祈り続けたいものです。その時、わたしたちは「神様に愛されている罪人」であることを知らされます。その喜びと感謝が、わたしたちをして、「平和を実現する人々」の一人としてくれることでしょう。




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