「歴史と未来に対する教会の平和責任」

日本キリスト改革派教会「宣教と社会問題」委員会委員長
弓矢健児(ゆみや けんじ)

 日本は先の戦争の反省に立って、憲法前文と第九条によって二度と戦争をしないことを誓い、戦争を放棄しました。憲法第九条は戦後の平和国家日本の原点です。国歌の為政者はこの憲法第九条の平和原則に則った政治を行っていく必要があります。
 けれども、こうした平和への責任は国歌の為政者にだけ求められているのではありません。実は教会にも求められています。というのも、日本の教会もまた戦時下において戦争に協力するという罪を犯し、侵略戦争に加担したからです。だからこそ戦後、日本の多くの教会・教派では、神の御前に戦争協力の罪を告白したのです。
 わたしの所属する改革派教会でも、遅ればせながら、1976年4月に『教会と国家に関する信仰の宣言』を採択し、その序文で、「聖戦の名のもとに遂行された戦争の不当性とりわけ隣人諸国とその兄弟教会への不当な侵害に警告する見張りの務めを果たし得ず、かえって戦争に協力する罪を犯しました」と罪責を告白しました。このように、日本の教会も戦争協力の罪を告白することによって、平和への責任を神の御前に約束しています。そうである以上、憲法前文と第九条に示された戦争放棄と平和への誓いは、単に国家の誓いだけではありません。それは戦争に加担した日本の教会の誓いでもあります。だからこそ教会は、国家が憲法第九条の原則に立った政治を行っているかどうか見張っていく責任があるのです。また、国家が憲法第九条を改悪し、再び軍事化の道を歩み出そうとする時には、そのような動きに反対し、警告していかなければなりません。そうでなければ、罪責告白を欺くことになります。
 もちろん、時代背景や歴史的状況から切り離して、「憲法第九条」という法律の是非だけを問うならば、キリスト者であっても賛成・反対どちらの判断も可能です。しかし、教会の信仰に基づく倫理的決断は、その教会が置かれた時代の現実や、歴史状況と無関係になされるのではありません。教会は教会が置かれている社会の歴史的現実と向き合い、その歴史に対する責任を担うことを通して、初めて主体的に責任と使命を果たすことができるのです。
 わたしは、日本の教会が国家に従属し、戦争協力の罪を犯したという歴史の現実を見る時、また、戦争における沖縄の悲劇、ヒロシマ・ナガサキの悲劇の現実を見るとき、憲法第九条に示された「戦争放棄と平和への誓い」を守っていくこと、また、九条が指し示している平和の実現のために努力していくことは、日本の教会の大切な責任であると思います。憲法第九条に関わる平和の問題は、単なる政治の問題ではありません。それは日本の教会の歴史に対する責任、未来への責任が根本的に問われている信仰告白の問題だと思います。




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